IF1:もし孫策が暗殺されなかったら
死の直前、孫策は曹操攻撃を計画していた
江東の小覇王こと孫策は、孫呉の事実上の創業者です。袁術から兵を借りて江東に兵を起こし、呉・会稽・予章・盧江の四郡を瞬く間に平定し、政権の基盤を確立しましたが、呉郡太守の許貢が曹操に通じたためこれを処断したところ、許貢の食客が孫策を襲撃。この傷がもとで、建安5(200)年に没します。
産声を上げたばかりの孫氏勢力は孫権が継承し、後には三国の一角を占めるほどに発展することはご存知の通りですが、「攻めの孫策、守りの孫権」ともいうほど2人の性格・資質の異なります。孫策が死ぬことなく軍を率いていれば、政権の性格も違っていたでしょう。
事実、孫策の死の直後に孫氏勢力は大きな政策転換をします。孫策が袁紹に呼応して曹操に対して兵を起こそうとしていたところ、孫権は兄の死を受けて急遽、曹操との関係を改善し、北方の政局にはかかわらずに足場固めを進めていきました。
孫策が死ななければ、確実に孫策軍は許都に向かって進軍し、袁紹軍とともに曹操を挟撃していたことでしょう。曹魏にとって、袁紹との全面的軍事衝突≪官渡の戦い≫は、寡兵でもって臨んだ最大の天下分け目の戦いであり、曹操の生涯でも最大の危機でした。この官渡の戦いに、江南から孫策軍が参戦していたら、どうなっていたでしょうか。
孫策軍遠征部隊の陣容
では、孫策はどれほどの陣容で曹操に対して戦を起こそうとしていたのでしょうか。当時の孫策軍がどれくらいの兵力を保持していたか、正確なところは明らかではありませんが、孫策の挙兵時の兵力は「玉璽を質に出して袁術から借りた」兵3000と馬匹500、という数字はよく知られています。また、江東を平定した後、袁術に「借りた兵を倍で返すので、玉璽を返してほしい」と交渉して断られています。6000の兵を返還するには、最低でもその倍の兵力を保持していたと思われます。3倍程度と考えるのが妥当でしょうか。この兵は結局、袁術に渡っていないので、孫策勢力の兵力は1万8000以上と思われます。さらに、袁術との交渉から、孫策が史実で死ぬまでに数年があり、この間は勢力圏内の国力増進に専念できたと思われるので、孫策勢力の兵力は3万程度になっていたのではないでしょうか。ちなみに、赤壁の戦いで孫権軍が動員した兵力は5万程度と考えられています。
もっとも、3万は孫策の保有兵力であって、本拠地を遠く離れて外征に連れて行ける兵力はその中のごく一部に限られることは論を待ちません。江南は許貢の事件を見てもわかるように、まだまだ孫策に服していない在地勢力も少なくなかったと考えられ、あまりに手薄にすることはできないでしょう。なお、兵站に関しては江南は生産力の高い地域なので、比較的余裕があったと考えられます。これらを勘案して、孫策が許都攻撃に動員する兵力は1万程度と推測します。
次に、将官の陣容です。当時の孫策軍は、孫策直々に兵を率いることが多く、許都攻撃のような大軍事作戦では確実に孫策が総大将となることでしょう。軍師は周瑜なのも間違いありません。当時の孫策勢力の主だった人物は、孫策、周瑜のほか、父・孫堅時代からの宿将である程普、黄蓋、朱治、韓当ら。江東平定の過程で順次帰参した、呂範、張昭、張紘、太史慈、陳武、董襲、周泰、蒋欽、虞翻、凌操といった面々です。
本拠地・江東も完全に治まっている状態ではないので、年若い孫権を会稽郡に残し、周泰が護衛。張昭、呂範、虞翻らの文官が補佐し、軍人としては程普、朱治、董襲、陳武あたりを残しましょう。ちなみにこの時点では、張紘は朝廷に出仕しています。孫策から許都への使いに出されたところ、曹操にその才を恐れられ、孫策のもとに帰さないために廷臣の位を授けられているのです。許都にいる張紘にも、後々働いてもらいましょう。
すると遠征軍の陣容は、総大将・孫策、軍師・周瑜。先鋒を太史慈、左翼・黄蓋、右翼・韓当、後衛・凌操といった陣容ではないでしょうか。蒋欽にも周瑜のもとで遊撃軍を率いてもらいます。それともう一人、忘れてはいけない人物がいます。孫策の三弟、孫匡です。彼は曹操の族弟・曹仁の娘を妻に娶っています。このつながりは、今回の戦の重要なポイントになってきます。
北方の情勢
目を北の方、袁紹と曹操の対陣に向けてみましょう。曹操は前年、徐州で「反乱」を起こした劉備を討伐し、劉備は袁紹を頼り、関羽は曹操に降伏し、張飛は汝南に逃れて黄巾残党の頭目となっています。袁紹は劉備が徐州で兵を挙げたときには子供の病気を理由に呼応しなかったのに、200年1月になって曹操討伐の檄文を送り、ついに兵を起こします。
正史によると、袁紹は「数十万の兵から十万の精兵と一万の騎馬を選び、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を参謀とし、顔良・文醜を将軍として許に攻めかかった」とあります。国力としては待機兵力を含めて数十万を保持しており、遠征軍は十万で編成されていたとみられます。
一方曹操は、一万の兵でこれを迎え撃った、と史書のあちこちに書かれていますが、これには正史の注を書いた裴松之ですら疑問符をつけています。曹操側が劣勢であったことは間違いないでしょうが、兵力そのものは研究者によって諸説あるようです。曹操は青州黄巾賊を討伐した際に、「青州兵」30万を配下に加えており、予備兵力はそんなに少なくなかったはずです。ただし、袁術討伐、呂布討伐、劉備討伐と出征が相次いでおり、むしろ補給面に難点があったと見られます。実際、官渡では曹操軍は大軍を擁している袁紹よりも先に兵糧が尽きています。ここでは、曹操が動員したのはおよそ5万の兵力であったと仮定しましょう。そしてこれは、動員可能兵力の大半であるとみられます。(官渡の戦いにおける曹操軍の兵力についてはBarcarolle様のHP"A Rainy Day"内の論文「官渡の戦いの兵力について」を参考にいたしました)
官渡の戦いの経過としては、まずこの年の前半に、顔良が白馬県に侵攻、宋憲・魏続といったもと呂布配下の将をなで斬りにします。顔良はさらに徐晃とも一騎討ちを演じますが、徐晃は二十合足らずでかなわじとみて逃げ出します。譜代の諸将が顔良の猛進撃を止められないのをみて、関羽が「恩義を返すときが来た」とばかり曹操の前に進み出て、顔良を一刀のもとに屠ってきます。いかにも演義で書き加えられたようなエピソードですが、正史にもちゃんと明記されています。もっとも、顔良は劉備が袁紹に身を寄せていたことから、関羽を敵と認識しなかった隙を突かれたとの説も有力ですが。続いて、延津では劉備とともに出陣した文醜が荀攸の計略にはまって殺されます(演義ではこれも関羽の手柄になっていますが)。白馬・延津という前哨戦は、完全に曹操側の勝利に終わっているわけです。どうも、劉備主従が足を引っ張っているような気もするのですが。
ここへきて、袁紹はついに全軍を南下させ、官渡を舞台に本格的な対陣が始まります。
袁紹は出陣に際し、性急な軍事作戦を戒めて長期戦略を提示した田豊を獄に下しており、官渡に参戦した将の主だったものは、袁紹を総大将に沮授、逢紀、審配、郭図、許攸、張郃、高覧、淳于瓊といった諸将。一方、曹操側は郭嘉、荀攸、賈詡、程昱、劉曄を参謀陣に、徐晃、張遼、于禁、楽進を将軍として従えていました。
汝南の叛乱
緒戦の白馬・延津の戦いで、顔良・文醜を失った袁紹は、顔良を斬った関羽の義兄で、文醜とともに出陣しながらおめおめ逃げ帰った劉備に怒りを爆発させます。そこで劉備は、関羽と連絡を取り、手勢を率いて豫州方面に移り、曹操の背後を突くことを提案します。
豫州汝南郡は許都のある穎川郡と隣接し、曹操の勢力圏内ですが、袁氏の出身地で地元には曹操よりも袁紹に親近感を持つ長老が少なからずいました。また、この土地には黄巾残党の劉辟・龔都といった賊が勢力を張っていました。劉備は当時、袁術討伐の際に与えられた飾りのポストとはいえ、「漢左将軍領豫州牧宜城亭侯」に封じられており、豫州牧として汝南郡には一定の指示権を持っていました。そこで、関羽と合流して汝南で曹操に対し、兵を挙げることにしたのです。
生き別れになっていた桃園三兄弟の最後の一人、張飛も汝南で黄巾残党の一部を束ね、賊の頭目のようなものになっており、三兄弟は再開を果たすのです。加えて、袁紹に滅ぼされた公孫瓚の客将だった趙雲ともここで合流します。
さて、そこで孫策軍です。袁紹の使者として孫策に決起を促しに来たのは陳震という男ですが、陳震は孫策のもとに来る前に、関羽のもとをひそかに訪れ、劉備が袁紹の客将となっていることを伝えています。同じ陳震が使者に立っているということは、孫策は劉備が汝南で兵を挙げることを聞かされていたと考えてよいでしょう。汝南は許都の南東に当たり、孫策が許都を目指すのであれば進撃路に当たります。袁紹としては、孫策と劉備が協力して汝南方面で戦を仕掛けることを望んでいたのでしょうか。あるいは、孫策への要請は、徐州方面に出陣することで曹操軍を分散させるといったものだったのかもしれません。史実で孫策が死ぬ直前の軍事行動について、一説には「広陵太守の陳登を討とうとした」とも言われており、一定の説得力を持つからです。
しかし、今回のシミュレーションでは、孫策軍は許都を目指し、汝南方面へ進軍するものとします。なぜなら、許都を押さえないと孫策にとってメリットが少ないからです。徐州攻撃は反曹操陣営としては合理的な戦略で、孫氏政権としても徐州を版図に組み入れる可能性が極めて高いといえます。しかし、この戦略で袁紹が曹操を討ち、許都の献帝を迎えたとすると、朝廷の実力者が袁紹に置き換わるだけで孫策は地方勢力の座を脱却できません。むしろ、肥沃な河北を押さえた袁紹が朝廷を迎えたほうが、曹操と袁紹の対立した状況よりも圧迫が強まるとすら言えます。
すると、孫策にとって今回の曹操包囲網で求められるのは、袁紹よりも早く許都を攻略し、献帝を迎え入れることだというのがわかります。それによって、漢王室の守護者の地位を手に入れることが、今後の戦略上死活的に重要になってくるでしょう。
さて、史実ではこの汝南の叛乱は、劉備の手勢と汝南黄巾、そして袁氏ゆかりの在地豪族の拠出した兵を母体に数万規模だったとされます。これを討伐するのに、曹操は曹仁を大将とし、参謀を満寵、副将に夏候淵、李通を配した2万程度の軍勢をあてており、劉辟らは討たれ、劉備一党も敗走して荊州の劉表のもとに落ち延びることになります。
今回の想定では、これに孫策の1万の軍勢が加わります。兵力でいえばわずか一万ですが、寄せ集めの数万と互角以上の実力はあるでしょう。なお、汝南の兵力構成については、これ以降、次のように考えます。孫策軍1万、劉備直率5000(張飛の賊軍を含む)、汝南黄巾3万、土豪義勇兵2万。
問題は連合軍の大将が誰になるかです。前述の通り、劉備はこの時点で漢の左将軍であり、一方の孫策は討逆将軍でしかありません。年も親子に近いほど離れており、主導権は劉備が握ることになるでしょう。孫策軍の黄蓋や韓当らは、かつて孫堅に従って反董卓連合軍に参じたときに劉備をみてはいますが、周瑜は劉備を目の当たりにするのはこれが初めてです。しかし、数日もしないうちに、劉備に全軍の指揮を任せることは危険だと悟るでしょう。また、まだまだ兵力の少ない孫氏政権にとって、劉辟らの率いる汝南黄巾や親袁氏豪族の義勇兵は魅力的です。ここで周瑜は一計を案じ、劉備を汝南戦線から追い出して、汝南の5万の兵を孫策に直率させようとします。(このあたりはすべてシミュレーションになってますので誤解なきよう)
周瑜は劉備に、こう提案します。「いま、袁紹殿が河北の精騎十万を率いて官渡に臨み、劉豫州(劉備)と孫将軍(孫策)も汝南で許都を伺っており、曹賊を覆滅する千載一遇の好機といえましょう。ここで荊州牧の劉表殿も南から兵を起こしてくだされば、万に一つも曹操めを討ち漏らすことはありますまい。なんとか劉表殿を説得したいところですが、孫家は荊州とは遺恨のある間柄で、我々からは頼みづらい部分があります。その点、劉豫州なら劉表殿とは同族。どうか荊州を訪ねて劉表殿を説き、三方面から曹操を包囲する一翼となっては下さいませぬか」。
劉備は説得されて、関羽・張飛らと手勢を率いて劉表のもとへ向かいます。劉備たちが離れると、周瑜は劉辟ら汝南黄巾の頭目を斬ってその兵力を完全に孫策の指揮下に組み込みます。孫策のもとには、黄蓋や韓当などの百戦錬磨の将、太史慈、凌操、蒋欽といった若い武人がそろっているので、合わせて6万の寄せ集め兵でも統御することは可能でしょう。
眼前の曹仁の軍に対しては、孫匡を利用します。前述の通り、孫匡には曹仁の娘が嫁いでいます。孫匡は密使を曹仁に送り、「私は妻(曹仁の娘)を愛しており、妻は私が敗れても父を失っても悲しむことになる。私も岳父どのとは戦いたくない。北の戦さが曹操殿の勝利に終われば、兄も兵を江東に返すだろうから、それまで武力衝突を避けるようにしたい」と伝えます。もちろん、すべて周瑜の入れ知恵です。
書面を手にした曹仁は、公私を混同しない性格なので、満寵ら幕僚陣に書面を示し、意見を求めるでしょう。満寵は「孫策側には、おそらくすぐには戦えない弱みがあるのでしょう。劉辟ら賊の頭目を斬ったという情報もあります。陣中がまだ落ち着いておらず、時間稼ぎのためにこのような書面をよこしてきたのでは」との分析。実際に孫策の陣中を探らせると、旧賊軍に不穏な動きがあることが判明します。さらに、賊将の一人が恩賞と引き換えに寝返りを打診してきたため、曹仁は喜んでこれを受け入れ、決戦に挑みます。
しかし、寝返りを約束していた賊将は実は蒋欽で、周瑜の策ですべては曹仁の油断を誘うための罠。蒋欽の部隊の手引きで袋小路に追い詰められた曹仁軍は殲滅され、李通は討たれ、曹仁と夏候淵は命からがら脱出するという失態を演じます。この折、夏候淵に太史慈が単騎で挑みかかり、三十合ほど打ち合うものの決着がつかず、夏候淵は情勢不利として撤退する、といった一幕があります。
曹仁軍を撃破した孫策は、余勢を駆って許都に進軍していきます。同時に、周瑜は許都にいる張紘と連絡を取って、内部工作にも着手していくのです。
穎川の戦い
曹仁敗れるの報に触れ、許都では大混乱が起きます。許都は曹操の本拠地であると同時に、漢王朝の都でもあるので、献帝を中心に廷臣のグループと曹操家臣団とが混在します。もちろん、朝廷の官爵を得て廷臣の身分で働きながら、忠誠の対象は曹操というものも少なくありません。
曹操が官渡に出兵しているため、許都にいるのは留守番部隊くらいのものです。中心になっているのは荀彧。武官でいえば、官渡の戦いで姿を見せない夏侯惇あたりがいたのではないでしょうか。また、かつて会稽太守として赴任中に孫策に苦汁をなめさせられた王朗も中央政界に復帰してきています。
一方、董承のクーデターはすでに未遂で終わっていますが、このころには献帝は曹操を敵視しており、伏完のようにその意を含むものも少なからず廷臣の中にはいます。
彼らの間で、孫策軍の進軍に対し、どう対処すべきかが議論されます。
はじめに発言するのは王朗です。実際に孫策と戦い、命からがら逃げ出した経験のある王朗は「兵法にも、敵の勢いが激しければ当たるべからずとある。江東からの遠征で、彼らも遠からず疲れが出てくるはず。勢いがあちらにある今は対決を避け、陛下には洛陽に移っていただくべきだ」と遷都を主張します。
夏侯惇が異論を唱え、「孫策の兵はすでに疲労の極に達しておるはず。ここは許都周辺の兵を駆り集めてでもいま一度打って出て、討滅するに如くはなし」と主戦論を唱えます。夏侯惇は野戦の猛将にして名指揮官ですが、籠城戦の経験は少なく、できれば避けたいとの思いがあるのでしょう。
また、すでに触れている通り、曹操陣営は官渡の長期対陣を支えるだけで糧食が尽きかけている状態で、万が一にも許都が包囲されれば、官渡への補給線も途絶する上、許都の膨大の民間人口も食わせていかなければならないため、とても長期間は耐えられないのです。
なお、中原は呂布追討、袁術討伐で疲弊が激しい一方、洛陽や長安などの関中盆地は董卓一党による暴政の被害で都市部が壊滅しているだけで、農村部は比較的無事なため、穀物生産力は低くなかったと思われます。また、鐘繇が関中の復興にあたっており、後の馬超の侵攻のときには長安は一大軍事拠点となっていますし、洛陽も曹丕が皇帝になるときには都が置かれるまでに回復しています。官渡の戦い当時でそこまでの復興段階にはなかったでしょうが、洛陽は難攻不落の虎牢関に守られていることもあり、緊急退避的な遷都先として王朗があげるのにも一理あります。
折しも、曹操からも兵糧の輸送を求める書状が届きます。同じ書状で、袁紹の大軍を前に曹操は弱音を吐いており、史実では荀彧は曹操を叱咤激励して輜重隊を送り出します。総帥・曹操の戦意が衰えたら、兵力で劣る官渡の戦局は一気に不利になることは確実で、荀彧としては許都自体が危険にさらされていても、史実とほぼ同様の手紙をしたため、輜重隊を送り出すしかないでしょう。兵糧を送り出せば、許都での長期籠城はできなくなります。荀彧は合わせて夏侯惇の首都防衛軍を率いて孫策を迎え撃つとの案を採用し、一方で万一の事態に備えて献帝だけはひそかに洛陽に移すことを決めます。
さて。すでに書いたように、当時、許都には張紘が廷臣として仕えています。張紘は史実では、孫策の死に乗じて江東平定を計画する曹操を諫止して、孫権に会稽太守の地位を与えさせ、自身も会稽東部都尉として赴任するかたちで江東に戻るのですが、孫策が死なないので、まだ許都にいるのです。史実のエピソードから考えて、張紘は許都でも一定の信頼を得ていたことが分かります。張紘もおそらくは今回の作戦会議の末席に加わり、論議の一部始終を聞いていたでしょう。張紘は献帝の洛陽行幸と輜重隊の進発の情報を格調高い詩賦の文面に隠して孫策のもとに送り届けます。
孫策は張紘からの書状を得てもその意味するところが分からず、「戦場にこのような詩は似つかわしくない」と苦笑しながら周瑜に示します。周瑜はその書を見ると、「危険を冒してまで張紘殿が送り届けた書面。字面通りの詩賦ではなく、裏の意味があるはず」。しばし瞑目して考えた上で、見事にその謎解きをします。
孫策は袁紹に輜重隊の事を知らせる一方、汝南黄巾の軽装兵3000ばかりを選んで凌操に率いさせ、献帝を迎えに行かせます。一方、正面には夏侯惇率いる3万の兵が展開しつつありました。
孫策の主力軍は夏侯惇軍とにらみ合いを続けます。このころ、孫策軍側も補給線が延びきっており、かなりつらい状況になっているものと思われます。しかし、穎川にほどちかい荊州の劉表に援軍を依頼に行っていた劉備一党が、2万程度の兵と十分な兵糧を運んでくることで、戦局は一気に孫策・劉備連合軍側に有利になります。
劉備に参謀として付き従う劉表配下の蒯越は、補給部隊をおとりに夏侯惇軍を誘い出す策を立てますが、慎重な夏侯惇は乗ってきません。しびれを切らした張飛が手勢3000を率いて突出すると、夏侯惇はこれを屠りにきます。劉備もあわてて全軍を投入し、乱戦となります。ちなみに、関羽はつい先日まで曹操に恩を受けていたため戦いにくいこともあり、劉表から兵を借りる担保の意味もあって、襄陽に人質のようなかたちで残っています。
乱戦の中、張飛は敵将・夏侯惇を見つけて一騎打ちを挑みます。夏侯惇も十数号までは耐えたものの、全軍を指揮する立場でもあり、副将の朱霊が矢を射掛けて張飛を牽制した隙をついて離れます。しかしその間に、孫策の軍も夏侯惇軍に総攻撃をかけており、状況は夏侯惇に不利になるばかりです。
それでも夏侯惇は兵を束ねて一時引いて壊滅だけは逃れます。孫策・劉備連合軍は補給が整ったため、長期戦の構えを敷きます。連合軍側には、汝南の戦いの初期にもあったような指揮系統上のトラブルが生じます。劉備の率いる兵は劉表からの借り物で、監軍として同行した蒯越が無謀な戦をしないよう監視していたり、孫策の兵も多くが汝南黄巾や親袁氏豪族の兵で思うままに使えません。兵力に劣り、補給も滞りがちな夏侯惇は、直率の兵とともに夜陰にまぎれて劉備の陣を襲いますが、張飛に阻まれて劉備を討ち逃します。どちらも決め手に欠き、戦線は膠着します。
そうしているうちに、夏侯惇の陣中に汝南で敗れた曹仁、夏候淵、満寵が敗残兵をまとめて合流します。満寵は「連合軍側が仕掛けてこないのは、孫策と劉備の間に不和があるから」と見抜きます。曹操陣営のほうが兵糧の心配をしなくてよいのであれば、長期戦の構えを敷くだけで相手が勝手に瓦解することもあるのでしょうが、補給面に不安がある以上は、仕掛けざるを得ません。満寵は「劉備は曹操様に激しい敵意を抱いているが、孫策は袁紹や劉備が兵を挙げた隙を突いて漁夫の利をさらうことを考えている」と分析。劉備陣営に攻撃を仕掛けることを提案します。
夏侯惇が二万を、夏候淵が騎兵を中心とした5000、曹仁が歩兵5000を率い、夏侯惇の本営を十里ばかり下げて曹仁の兵を近くの林に潜ませ、夏候淵の部隊で張飛を挑発して誘い込む策が立てられます。一方、満寵は蒯越に密書を送り、帝都に兵を向ける非を鳴らすとともに、兵をひけば劉表一門の昇進を約束する旨書き送ります。
密書を得た蒯越は、「敵軍はかなり苦しい状況にある」と判断。書面を握りつぶします。翌日には陣頭に出てきた夏候淵が張飛を挑発しますが、張飛を劉備が「何かの罠に違いない」と押しとどめているうちに、「夏候淵現る」の報を聞いた太史慈が飛び出します。
夏候淵は予定外の武将の出現に戸惑いますが、「汝南で預けた勝負の続き、ここで白黒つけようぞ」と打ちかかる太史慈と切り結ぶのにやっと。作戦通り撤退しようとしたところに、張飛も挑みかかってくるため、時機を逸します。
夏候淵の部隊の動きに不審を覚えた周瑜は黄蓋にその退路を断たせるとともに、韓当に汝南黄巾の兵をつけて付近を探索させます。案の定、曹仁の伏兵部隊が見つかりますが、韓当は軽く交戦するだけで撤退します。賊兵は正規兵と違って撤退・転戦を常としているので、兵をひいても混乱は生じません。
何とか馬首を返して曹仁の伏兵地点まで退却する夏候淵ですが、先回りしていた黄蓋に散々に打ちのめされます。曹仁はすぐに応援に駆けつけるものの、用意していた罠を使うこともできず、連合軍に敗れます。
夏侯惇はこの後、堅く守って攻撃を仕掛けなくなります。
許都陥落
一方、官渡。孫策から曹操軍の兵糧が欠乏し、許都から補給部隊が向かっていると連絡を受けた袁紹は、これを利用して一気に決着をつけようと図ります。しかし、毎度のように袁紹陣営では参謀陣の意見が統一できません。
すでに沮授は長期戦を主張して獄に下されており、田豊は随軍させてももらっていません。主要な参謀は逢紀、郭図、審配、許攸、荀諶といった面々です。
まず、許攸は兵の半ばを裂いて補給隊を殲滅し、長躯して許都を狙うべしと唱えます。逢紀は士気が低下しているはずの曹操軍本営への総攻撃を具申。郭図は偽の補給部隊を仕立てて曹操軍にもぐりこみ、内部からの撹乱を主張します。
優柔不断な袁紹は三人の提案のいずれを採用するか、決めかねます。しかし、許攸の献言は郭図の讒言により退けられます。結局、高覧に偽の輜重隊を編成させて曹操陣営に潜り込ませる一方、タイミングを合わせて張郃の率いる部隊で本陣を襲わせることにします。
高覧の偽補給部隊はしかし、郭図の讒言を嫌って曹操に下った許攸によって正体が暴かれ、高覧は捕らえられます。なお、高覧が運んできた食料には郭図の策ですべて毒が仕込んであり、致死性まではないものの、食べたら腹を下すことになります。物資に余裕のある袁紹軍ならではの策で、荀攸がその危険を未然に察知して被害は最小限に抑えるものの、膨大な食料を前にしながら食べることのできない兵士の間に不満がたまっていきます。
高覧は張郃が本陣を狙っていることを白状し、すぐに曹操は応戦の体制を整えます。張遼・徐晃の部隊が張郃を退けます。これに審配がさらに攻撃を加え、曹操軍も甚大な被害を受けて撤退を開始します。
一方、袁紹陣営では策を外した郭図が袁紹に、「高覧は前から曹操に情を通じていた」、「張郃は手を抜いた」と讒言します。散々に打ち破られて帰陣した張郃は怒り、郭図を斬ろうとしますが、曹操軍が撤退を始めたとの知らせを聞いた袁紹が、張郃には新兵を率いて追撃を命じ、この件は沙汰止みとなります。また、逢紀が「許が孫策の力だけで落ちれば、戦後の大将軍(袁紹)の権威に禍根を残す」と主張。沮授を許して曹操追撃隊の指揮を執らせるとともに、袁紹自身は兵の半ばを率いて許都を直接攻撃することにします。
沮授は曹操の撤退を偽装撤退と見抜き、袁紹が離れるとすぐに張郃に兵をひくように指示します。その上で蒋奇の部隊に荀彧が送った補給部隊を襲撃させ、曹操に本当に撤退を余儀なくさせます。
一方、献帝は曹純と呂虔が目立たぬようにわずかな兵で警護して洛陽に向かっていましたが、移動の遅さがたたって、凌操の部隊に捕捉されます。曹純は奮戦しますが、兵力に劣る上、足手まといの皇族を連れたままでは応戦もままならず、敗れ去ります。呂虔は斬られ、凌操が献帝を奉じて孫策の陣に向かうことになります。
孫策の陣に献帝が到着すると、孫策は大司馬の官位を求めますが、献帝はやんわりと拒否します。苦難をともにした廷臣の多くが許都に残された状態で、官位の乱発をすることに抵抗感があったためです。劉備がすぐに挨拶に訪れ、曹操討滅の詔勅を求めます。献帝は曹操の名には触れず、許都の廷臣に門戸を開いて連合軍に下るべしとの勅を下します。夏侯惇は献帝が孫策の手に落ちたことを知って許都直近まで陣をさげ、荀彧と善後策の協議に入ります。
袁紹は于禁・楽進ら曹操軍の遊撃隊と小競り合いを繰り返しながら、やや遅れて許都郊外に到着します。別ルートで南下していた曹操も許都の北に達し、都を挟んで一触即発の事態となります。
荀彧は曹操に書簡を送り、献帝をみすみす敵方に渡した失策について「万死に値する」と謝した上で、次のように述べます。「許都にはいま、糧食少なく、長期の対陣に耐える力はありません。また、廷臣の中には袁紹や孫策に通じておる者もいると考えるべきでしょう。不利な状態で都を戦場とし、徒に民を苦しめ、許を灰燼に帰するよりは、帝に都を明け渡し、関中と兗州に酔って捲土重来を期するに如くはありませぬ」。そして、自身が信頼する陳羣に廷臣として袁紹政権に潜り込ませ、他日に備えるべしと「曹公のためにする最後の策」として書面を締めくくります。
荀彧と陳羣はともに許都のある豫州穎川郡の出身です。穎川出身の知識人は、荀彧・荀攸・郭嘉らが曹操に、荀諶・郭図らが袁紹に仕えるなど、両陣営に分裂しています。特に荀彧と荀諶は兄弟で一定のネットワークが存在していたものと考えられます。しかし、史実では袁紹滅亡後に袁紹に仕えていた穎川知識人が曹操に重用されたとの記録はなく、ごく近しい間柄なだけに穎川知識人同士の確執のようなものがあったと思われます。陳羣は穎川の出自ですが、かつて徐州の官として劉備に仕えたこともあり、荀彧らと比べれば若輩で名も知られていないことから、間者として最適と荀彧は考えました。
荀彧の書面に死を覚悟した表現が散見されることから曹操は驚き、「陛下を賊の手に委ねた失望よりも、そなたが無事であった喜びがなお大きい。袁紹から陛下を奪還するにはそなたの才が必要だ」として労をねぎらい、すぐに許都開城の準備に移るように指示します。
関中は鐘繇ら曹操よりも漢朝に忠誠心を示す者が多く、都が袁紹の手に渡ることで連鎖反応が起きることを警戒した曹操は、夏侯惇・夏候淵・曹仁らに関中の押さえに回るように指示します。一方で自身は官渡に率いた兵を連れて袁紹軍の囲みの一端を破り、兗州方面へ落ち延びます。
荀彧ら一部幹部と夏侯惇の軍勢も夜陰に乗じて許都を去り、残された伏完らが献帝と袁紹・孫策・劉備の連合軍を迎え入れます。袁紹が中原の覇者となる瞬間です。
(以下、鋭意執筆中)
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